『言語ゲームと社会理論』 橋爪大三郎 勁草書房 評価C 再読F

 <概要>
 1章では、ヴィトゲンシュタインの後期の理論である『言語ゲーム論』の解説。すべての社会行動は言語ゲームであり、通常の論理学はそれと平行した別の言語ゲームであり、社会全体を説明する言語ゲームは存在することができないとされる。(説明の言語ゲームも社会に含まれるから)
 2章では、ヴィトゲンシュタインの理論を受け継いだ法理論家のハートの概念を利用して、一次ルールと二次ルールについて解説する。ヴィトはすべての言語ゲームは平行に独立して存在するとしたが、ハートはそれらが複雑な参照関係を持っており、参照されることによってルールが可視的になること、それと、法全体を説明するためには法全体を事実としてみて、その上で外部に出なくてはならないとした。
 3章では、ルーマンの予期理論を固体主義的アプローチの一例としてだし、言語ゲーム論と比較させて、貶めている。色々と細かい論証をして(ルーマン知らないと価値がわかりにくい論証)、結局予期からは法体系の理論は導けないとした。その後の論証では、規範的予期自体の存在も循環論法であるとして否定している。

「社会理論の実証性は無論、その説明能力にかかっている。理論はまず、説明すべき現象を確定すると言う記述部門を有する。説明は、この記述された社会現象を一定の単純な前提から論理演繹的に導出する操作である。これに成功するほど、その理論は説明能力が高い」(同書 P201)

 <感想>
 橋爪自身の提唱する記号空間論が全く見えないために、どう読むかが非常に広く取られてある意味すっげー使えない本だと思う。個人的な興味でいえば、ルーマンの著作はどんな内容なのかということに対して興味があって手にとったので、それに関しては微妙。予期に関する理論だけでルーマンが説明できるのだろうか。たぶんというか絶対違うと思うぞ、それだけだと。一応、橋爪の論証は正しかったように思えるけれども、ルーマンの著作・紹介書を読まずに判断するのは危険だろうなぁ。とりあえず、ルーマンに関してはかなり面白そうだった、ということはわかった。予期の連鎖、みたいなのはとてもしっくり来る理論。パーソンズだかから読んでみるか。
 というか、ヴィトゲンシュタインの立場では全然駄目だろうし、ハートの立場にたった所で、理論の有効性というのは証明できるのだろうか? 法学のようにある程度限定された領域において、一次ルール・二次ルールと言った概念を利用するのはそれなりに有効なことかもしれないけれども、それでも外部に本当に出ることができるのだろうか? それに、外部に出たところで記述された文章も所詮は論理学と同じように、違った言語ルールに過ぎず、例えそのルールが法体系全体を説明できていたとしても、それはルーマンのところで否定されていたイメージに過ぎないきがするし、消費される段階では言語ルールの波の中に飲まれていくだけなのではないだろうか。
 純粋にそれが読まれることがない、他者と読み比べられ曲解されることしかない、ということはもっと語られてもいい分野だと思うのだけれど、どうなのだろう。俺だけがそういう読み方をしているとはどうも思えない。文壇ヲタだけじゃなくて、著述業者の人もそう読んでるだろう。てゆーか、巧い本の使い方について書かれた具体的な本は浅羽通明以外にはなんかないのだろうか。そういう知恵が欲しい。
 とゆーか、外側に出るということ自体がなんかえらそうに思える風潮があるようで、なんだかやだなぁ、とか思う。
 あと、この書き方だとルーマンちとかわいそうだよなぁ……むぅ。
 抜書きは基本的なだけに、逆に使えそうな所。こういうシンプルな教えは意外と使えると思うのだけれど、どうなんだろう。