単なる801手法という気がしなくもない

 『フラワー・オブ・ライフ』について。
 基本的には信者ですww

 http://d.hatena.ne.jp/paraselene/20070709
 宏方さんのレビューが相変わらず凄い密度のレビュー。色々と考えながら読んでいた。
 二点気になったのは、天使の「堕落」という表現と、「大きな物語」から「小さな物語」への転向だった。用語レベルの差なのだけれども、もしかしたら、何かの役に立つかもしれないので文章化してみる。

 一点目は、ラストシーンの解釈と関わると思う。「社会の中で普通に個としてあるというのは、そういうものなのだろう。」という宏方さんの解釈にたいして、俺は「flower of life」の終わり、として読めてしまった。つまり、「flower of life=若い盛り」を二人が通り過ぎ、大人になった。だから、「flower of life」と名づけられた物語は終わりと遂げたのだ、と。
 大人への成長物語としてFOLを読み直すと、「「その時」を俺がちゃんと見極められるかは分からないけど、それでも俺精一杯翔太の気持ちになって考えてみるよ」にこの物語が着地しているように見える。つまり、想像力。
 読み返すと、想像力をテーマにした場面は多い。一話の冒頭の春太郎の挨拶に対するリアクション、三話のシゲの説教(最もストレート)、甲子園古墳の回の相沢さんの真島への態度、などなど。
 そして、それは春太の想像力の欠如がさくらの夜遊びを招き、それが春太に病気のことを暴露させるエピソードにつながり、そのままさくらの辛さを理解させることとなる。そして、それが着地点に繋がっていく。”YK”春太郎が相手を慮るようになる。
 宏方さんの用語を借りれば、大きな物語と小さな物語がまとめて、小さな物語へ回収されていく……ということになるのかな??
 だから、転向というよりも包摂と言う言葉の方がしっくり来る気がするんじゃないかな、と思う。小さな物語から始まり、大きな物語を包み込み、最後に小さな物語へ着地していく。
 エヴァでは、シンジの周りとの齟齬が世界を補完する方向に向かった。FOLでは、自分の死が他人への想像力に着地した。そうした、死すらも「他者との関係において襞となって日常を豊かにしていく」。
 個人的には、その感覚に痺れる。
 FOLは二次創作に近い感性を持っていると思う。特に、栞SSとほぼ同じ構造だ。「死を目前に経験した経験が、日常を豊かにする」ただし、比較した場合ディティールのレベルが圧倒的に違う。この作品の多様性に惚れ込むぶくまコメントが多いらしいけれども、納得。

 最近、自分が書きたいものが似たような着地点・ディティールだということが分かってきた。