【夜桜】

 多分、『淡いこころだって言ってたよ』の数ヵ月後の話。
 りはびり。年食った分、もっと中身がぎっしりしたもの書きたい。

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  浩平が重い腰を上げて外に出ようと思ったのは、夜の散歩を最も不審に思われないのは桜の季節だから、という意見を否定できなかったからだ。昨今の凶悪から軽微まで各種取り揃えた犯罪を考えれば、夜道をぶらりと歩いているだけで変質者に間違えられて、警察に面白くもないことを訊かれることは十分にありえる。だが、この時期であれば、夜桜に誘われて、の一言で返答が済む。
 そんな考えは余計なものに過ぎず、なんとなく興が乗ったから、に過ぎない。思い付きで過ごしているだけだ。
 二人は冬物のコートを着込んで、燗代わりに小さな酒瓶を持ち、扉を開いた。想像通りの肌寒さで茜の息が白く染まる。冬物をまだ仕まわなくて良かったですね、と茜が所帯じみたことを言う。春一番が余計な湿度を全て吹き払ったためか、階段の柵越しに見える町のかすかな灯りや星もいつもより鮮明に感じられた。いつも自分たち以外に誰が住んでいるのだろうと思う程人の気配がないが、今日はそれを強く感じる。乾いた空気に二つの足音だけが響いている。
 切れかけた電灯に茜の横顔が照らされる。元々痩身だが、いつも以上に横顔が細く、頬骨の輪郭がくっきりと見える。灯りが違うだけでこうも人の印象が違う。部屋の白熱灯の下では人の表情は平坦に見える。こうした小さな差異を見つけることが浩平は嫌いではない。
 あまり見ないでください、と茜がぶっきらぼうに呟く。照れ隠しをすると、憂い顔に見えているものが、ただの自分の思い込みであったことに気が付く。茜が綺麗だったから、と思った通りのことを言おうかと迷い、辞める。褒め言葉一つ一つに舞い上がる時期は当の昔に過ぎた。お世辞と取られて皮肉を言われてもつまらない。浩平は星が綺麗だな、と誤魔化す。
 住居を決めるときの条件は、男女二人で住んでも何も言われないこと、静かで安いこと、に続いて公園と図書館が遠くないことだった。図書館は茜が折れて自転車で十分程度で通える場所を選び、その代わり左右に古いマンションが並ぶだらだらとした坂を上がり、小さな丘の階段をあがった先にはある程度の大きさの公園がある。数人でボールを蹴って遊ぶには十分な広さだが、少年野球をやるには狭すぎる程度の砂地があり、そこからさらに階段を上がると小さな原っぱがあり、無造作に木が植えられている。
 住宅を探しに不動産屋を尋ねたのは三年前の二月のことだったので、数は少ないが幹の太い立派な桜が咲く公園があると何度も繰りかえされた。住み始めてすぐに向かった桜は、僅か十本ばかりだったが、そのうち最も高い所に植えられた二本はたしかに迫力があった。二人でそれを眺めて悪くない場所を選んだと肯きあったことを今でも昔のように思い出すことが出来る。
 夜の空気に押されてか小声で話しながら坂をあがる。公園にたどり着く。人気はほとんどない。老人が多い街なので、一時を回った時間はほとんど誰も出歩かないのだろう、と浩平は思う。ゴミも、ペットボトルや弁当思い思いに転がっているの時折目に付く程度だ。こういう時、つくづく自分たちにあった街を選んだものだと思う。余計なものに干渉されず、二人で静かな時間を永遠に続くかのように味わうことが出来る。
 階段を登る前から桜の頭だけが覗いている。灯りが弱く、灰色と桃色を混ぜたくすんだ色をしている。階段を上がりきると、小さな街灯に照らされて桜が咲いている。二本の大振りな桜は暗闇でも分かるほど満開だったが、光が当たっていないため鮮やかさに欠けた。その点、ベンチのそばにある桜には放射線上に伸びた光が届き、一本の木のなかで明暗を分けていた。光が直接当たっている部分は輪郭がはっきりし、そこから離れるにつれぼやける。明るい部分は昼の桜を思わせるような華やかさがあり、光の当たらない部分は他の桜と同じく闇にまぎれている。桜自体ではなく、光がその姿を分けていた。
「綺麗ですね」
「酒、飲むか」
 茜がビニール袋から半分も残っていない日本酒の瓶を取り出し、コートのポケットからお猪口を二つ取り出す。浩平に一つを渡し、手馴れた手つきで注ぐ。はっきりと見えない中でも茜はぎりぎりの位置に水面を保ち、にこりと笑う。浩平はそれを見て茜に注ぎ返すが、いつものように茜程うまく出来ず、注ぐ量が足りない。それを見て茜は自分の力量を誇るようにさらに口元の笑みを大きくする。浩平は小さくため息をついて、乾杯、と小声で言う。こぼさないようにそっと杯を合わせる。
 お酒を呑みながら二人でたわいない会話を重ねる。共通の友達、同時期に見たビデオ、就職活動のお互いの進行に、昔の思い出。
 いつまでも話すことはあったが、目新しい話題はなかった。どの話題も過去に何度も重ねられたものだった。三年という年月は長く、同棲で流れる時間は濃密だった。浩平はそのことにずっと前から気が付いていた。茜も気が付いていただろう。会話をしていると、生ぬるい水の中でただ漂っているような安心感を感じる。心地よく、抜け出しにくい環境。ゆっくりと温度が上がっても、気が付きはしないのだろう。
 気が付いたとき、会話が途切れていた。二人はただ黙って桜の木を見ていた。風が吹くと桜の木は小刻みに揺れ、光によってその色をかすかに変えている。
 そういえば、と唐突に茜が話題を切った。
「桜の木の下に死体が埋まっているという梶井基次郎の小説がありました。あの小説の中で、桜の木の下に埋まっていたのは色々な死体ですけれども、私は下に埋まっているのは女の死体だと思うのです。複数の死体ではなく、着物を着た一人の女の死体。生きているときは人目を惹くくらいには美しかったけれども、ずっと地中に埋まって桜に栄養を奪われているからすっかりと腐り果てている。でも、着物からは養分をうばうことは出来ないから、土に汚れても着物だけは変わらずそこに埋まっている」
 浩平の頭の中で、着物を着た女の姿がはっきりと想像された。黒に桜色の鮮やかな刺繍が施された着物をまとって女が一人、地中に眠っている。その寝姿は自然で組まれた手は穏やかさを感じられるが、顔は崩壊し白い骸骨がはっきりと浮かんでいる。着物から覗く手もよくよく見ると肉が削げ、生きている人間のものではない。
「男ではないと思うのです。男であれば、こんなに桜が鮮やかな色で咲くことはない。動物であってもこんな色じゃない。女が、女であるがゆえにこんな色で桜は咲いてしまうと思うのです。欲しがっても欲しがっても、いつまでたっても欲が果てない、そんな生き物だから」
 茜の声はだんだんと小さくなっていき、最後にはほとんど擦れて聞こえなくなってしまった。茜は俯いた。横顔が光で照らされていた。頬の下がこけて、頬骨がはっきりと見える。肌がいつも以上に白く。ひざの上に置かれた手は何かを祈るように握り締められていた。
「どうして、女はいつまでも欲しがるんでしょう」
 浩平は茜の顎に手を当てて無理やり起こすと、唇に自分の唇を合わせた。舌をこじ入れた。長い口付けの後、目を開けると茜の息がくっきりと白く染まっていた。それを見て浩平はもう一度口付けを交わした。
 茜の表情には、何も浮かんでいないように見えた。浩平は帰ろうといって茜の手を引いた。茜は足元を見ている。浩平がつられてみると、いつの間にか杯から酒は零れ落ちていた。浩平は無理やり茜の手を引いて、大股で家へと戻った。錠前を下ろし、万年床に茜の手をつかんだまま倒れこんだ。いつもよりも激しく唇をむさぼり、茜の体をむさぼった。はじめは冷たかった茜の体も暖まり、浩平は茜の声が漏れないように口元を押さえつけた。細く、悲しい声だった。
 茜は布団から体をのそのそと出して、乱暴に脱ぎ捨てられたコートから杯を取り出す。残った少ない日本酒を杯に注ぐと、ベランダにに出た。空を見上げて、杯を手に握る。かすかに星のにじむ夜空にふわりと桜の花びらが一枚舞う。茜は掌を広げて受け止めようとするが、それはひらりひらりと逃げていく。
 ひらりひらりと、逃げていく。