物思い以下。

 なんか色々と電車の中にいると「あ、これ日記で使えそう」とか思い出すのだけれども、どれも結局覚えてないのはなんか勿体無いような気もする。でもそんなものをメモするのもなんかへぼいし。小説のネタを思いついては、ぼんやりと消えていくのだけれども、それはなんか積み重ねになっている気がするからいいや。どうせ書かないし。

 と、下の社会学関係の話かいていたら思い出した。
 『赤×ピンク』読んでて思ったんですが、最近の小説家というのは昔の小説家よりも普通で、哲学者よりははるかに普通だと思うんですが、それでいいと思うんですよ。というか、昔の小説家は私小説書いてたから自分をキャラクター化だか、ネタ化だかして、「すげぇ、○○先生かっこいい!」という風にしなきゃいけなかったんだけれども、今はその必要がないんじゃないでしょうか。
 でも、学者は普通じゃダメだと思います。いや、普通でもいいんですが、何か一つの体験を持っていて、それを心の中で宝箱のように大切に保存していなきゃいけないと思うんです。あるいは、呪いのように取り付かれる、というべきか。そして、その体験から、立ち上がらせた疑問について極限まで推し進めて、そして、それと戦うことだけで一生を終える。それが学者の正しい姿なんじゃないか、とか思います。ドリーミーに。その方が無関係な側としては楽しいし、格好いい。永井均イディオムばりばりに。
 だから、自分語りをする学者・批評家は好きです。自分語りがそのまま話に繋がってくれば来るほどいい。なぜかって、信用できる。自分の問題に対して、完全に誠実であれば、それが正しかろうと誤りだろうと判断つけられなくても、最低それはある立場の人が真摯に考え抜いたというだけで価値があると思うのです。サンプルとしてでも、なんでも。
 大塚某が好きなのはそこらへんかなぁ、とか思いました。
 
 永井均の影響を受けているのは、やっぱり、浅羽通明にピンと来ていながらも、どっか「困ったなぁ」と思っていたからだと思っています。浅羽の言うことはどれももっともと感じられるのですが、本人も言うとおり救いがない。思想オタはダメだといわれても、どうしようもない。宮台みたいに「コミニュケーションスキルだ!」といわれても、やる気が。
 そんな自分には「哲学は遊びだ! 俺は人生かけて遊ぶぜ!」という永井均は自然で、それでいて格好よく見えるのです。
 でも、役に立たないことをアピールし続ける思想でもあるので、社会とのバランスもとれんとあかんのですよね。やっぱり、そういう意味では浅羽通明は必要。永井均的な喜びと、浅羽通明的なバランスを併せ持たないと。そう思いつつ、難しいなぁ、と思う。

 ところで、ネタ放出。
 倉科さんのこんぺ作を長編化したい衝動にかられてます。最近。というか、祖筋が同じだけど、違う話が書いて見たいとゆー。
 悪女が書きたい。でも、倉科さんのより出来が悪くなること間違いなしなのでかけない罠。
 あとは、FATEで、アーチャーエンド後の士郎の話。正義について、とゆー、FATEのオーソドックスなテーマについて。「たとえきっかけが何であれ、信じたものが正しかったから」という論理は本当に大丈夫なのか、という疑問をつぶしてみたい衝動が。
 もいっこは、オリジナル。パッチワークで、少年殺人者を、環境によって作られたものとして書いてみたい衝動がちょっと。でもこれ、たぶん、映画のプロットだと思う。小説じゃなくて、完全に外部から描ける映画とかの方がきっと向いてる。

 どれか描くのかなぁ?
 ところで、LONGHORNさんは、見てたらリクエストください。

 あと、わりとどうでもいい話ですが、社会学なんてものはなかった、というのはどうでしょうか? 大体の学問は派閥なんてのは言葉柄だけで、本当はあるものについて適当にそして徹底的に考えた人の寄せ集めなんじゃねーかと思うわけなんですが、たぶん社会学と哲学がその中でも一番酷い。哲学は、元から何でもありなジャンルですし、社会学は何でもありを売りにしちゃうような学問です。そうなると、対象すら別のもんになってしまうので、なにが共通項なのか、という。とりあえず同ジャンルだから、勝負しようぜ、という不毛さが『自己組織性』での対立だったんじゃないか、という気が。
 この考え方、永井均の影響バリバリなんですが。でも、一番楽しいし、楽な考え方なので、わりと好き。
 というわけで、社会学は方法論もないし、適当だし、そんなもんはないんです。よって、向き不向きはナッシン。ということでどうでしょう>相沢