理解できないものについて その1

 『お前がセカイを殺したいなら』は想像以上に凄い本で、想像外に不気味な本だった。はじめから読み進めるにつれて高まっていく齟齬。それは異常なAVを取る監督数人への小論で頂点に達し、そして本は終わった。
 はじめはそこそこに理解できていた。途中から読むと、それなりに理解することが出来る。だが、全体を通して読むと、ほとんど理解することができない。理解を拒むものが自分の中にある。
 『少年の街』は「女子高生監禁殺人事件」あるいは、「女子高生コンクリート詰め事件」として知られる事件の犯人、そしてその同年代である中学生を追ったルポだ。マスコミ報道により野獣と呼ばれた犯人達は、本当に異常な人間だったのだろうか? そんな疑問から発したこのルポは、最後には「少年達はその痛みや苦痛、恐怖のなかで「生」を感じて、おびえながら生きている」と、まるで犯人達も被害者であったかのように結ぶに至る。そこに至るまでの過程を読んでいると、確かにそうだったのかもしれないな、と思えるものがある。
 『少年の街』で最後に加害者だとされていたのはその町のシステム全体だった。貧乏で余裕の無いものたちが集まる環境、それを抑圧し文部省に媚びを売る学校、治安維持のための警察署――。
 理解できるように思えて、理解できないもの。
 理解できないように思えて、理解できるもの。
 なぜ、その二つがあるのか、どうして理解できるようになるのか、理解できないものがあるとしてそれにたいしてどのようなスタンスを取るべきなのか。そこらへんに関して、考えてみたい。

 ――いずれw
 今日はSS書かねばーっ!