『音色』

 『新人KREVA』聞いてたらなんか書きたくなったので。30分。

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 月が丸すぎて目を回しそうな夜に、アイツは塀の上を歩いていた。生まれたての子猫が歩くのに比べても、あまりに頼りない足取りで、酔っ払ったあたまを抱えながら、これは夢だろうか、と俺は考えていた。手を大きく左右に広げ、かすかに風に揺れながら歩いていたアイツは途中で振り返って子供みたいに無邪気な顔で笑った。俺が、「ばぁーか」と呼びかけると、「なによー」と怒って手を振り回して、塀から落ちた。凄いいい音がした。なんだか心配するのもバカらしくて、アイツらしくて、俺はゆっくりと進んだ。頭の中がふわふわしすぎて、これは夢だろうか、ともう一回空に尋ねてみた。
 えへへ、と彼女は笑った後、「月、きれいだね」と言った。
 
 付き合い始めて、三ヶ月。はじめて会ったのはさらに二ヶ月前。
 先輩に付き合わされて、しこたま飲んで、酔っ払って、ふらふらになって、駐車場で思いっきり吐いた。吐いたものが知らない車にかかって、自分があんまりにみっともなくて逆に笑えた。背中を丸めた四つんばいの姿勢のまま見上げた空は星がきれいで、子供の頃のままで凄く驚いた。
 ふと、子供の頃に夢があったな、ということを思い出した。夢といっても、バカみたいな夢だ。宇宙飛行士になりたいだとか、刑事さんになりたいだとか、白衣着て巨大ロボット作って合体させたいだとか、そんなもの。宇宙飛行士なんて割に合わない仕事だし、官憲になっても人に憎まれるばかりだ。巨大ロボットなんて作れない。合体する意味もない。鼻で笑い飛ばすようなものだけれども、星を見るでもなくぼんやりしていると、妙に懐かしく身近なものに感じられた。
 手を伸ばしてみた。ひんやりと冷たい空気を抜きさって、月に手が届きそうな気がした。でも掴んだものは、白くなった自分の息だけだった。馬鹿みたい。馬鹿みたい。全部馬鹿。
 はは、と笑って、手を引っ込めようとした。
「えい」
 その手を、掴まれた。
 あっけに取られてさらに腰をそらせて見ると、子供みたいな顔したアイツがにっこりと笑って、こういった。
「こんばんは」
 正直、アホかと思った。
 というか、かかわりたくないと思ったが、かかわらずに逃げられるとも思えなかった。既知外に付きまとわれるのは嫌だったから、俺は中途半端に顔を引きつらせて、「こんばんは」と言い返してみた。すると、彼女はするりと手を離して、「身体、大丈夫?」と訊いた。姿勢を直して、うなずいてみても、目の前に汚いゲロが転がってんだから、信憑性なんぞまったくない。彼女がポケットから取り出した胃腸薬を素直に受け取って、渡してくれたペットボトルで飲み干した。
「えへへ」
 小さく笑う彼女の顔を見て、俺が首をかしげると、「よく知らない人から貰った薬すぐ飲めるね」と笑いながらしゃべって、言った後また笑った。
 腹を立てる気力もなくなって、見上げて、へへ、と変な笑い声を浮かべると、アイツは「えへへ」とまた変な笑い声をあげた。
 ぱんぱん、と汚れたズボンの端をはたきながら立ち上がる。
「んで、あんた誰だよ」
「わたし?」
 左右を見渡す。
「あんた」
「あ、えっとね」
 それでアイツはたどたどしい説明を始めた。自分もここら辺で飲んでいたこと。いい気分になって(「だって、星綺麗じゃない」と笑った)、ふらふらしていたらはぐれてしまったこと。そして、たまたま俺を見つけたこと。
「で、かっこいいなぁ、と思って」
「俺が?」
「うん」
「へぇ」
 年に2回くらいしか聞かない言葉だ。
「なんか、星を掴もうとしてるみたいだった。『プラトーン』みたいに」
「って、それ死人じゃねーか」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
 俺は肩をすくめる。
「ところでさ」
「なに?」
「薬、ありがと」
 俺がペットボトルを渡しながら言うと、アイツは「どういたしまして」と笑ってみせた。
 その笑顔を見て、案外コイツ、かわいいな、と思った。
 
 暇を見て、メールを送ってみると、予想以上に変わった奴だった。返事は返ってこないし、添付ファイルは話題と関係のない音楽。しかも、聞いてみると打ち込み系で滅茶苦茶格好いい。電話をしてみれば、深夜の3時まで盛り上がって、話題が『報道ステーション』のことだった。今思い返しても、なんで古館がそんなに面白かったのか、さっぱり思い出せない。けれども、薄い壁が気になるくらいに俺は笑いまくって、翌日の仕事は眠くて仕方がなかった。
 そんなことが続いて、遊びに誘ってみた。映画。なんか、流行の奴。んで、実際に行ったら、思わず横にB級ホラー映画を見てしまった。だんだんペースに巻き込まれることを感じながらも、それが楽しく感じられて仕方がなかった。ポップコーンをほおばりすぎて、ハムスターになってるアイツの顔を見ただけで、車出したかいがあったなと思えた。
 それでまた、えへへ、って笑うんだ。アイツ。
 
 
「ねぇ」
「ん?」
「幸せ?」
「今?」
「うん」
「――ああ」
「あ、照れた」
「照れるだろ、ふつー」
「そう?」
「そうだよ」
「そっか」
 夜に会うことが多いけれども、なぜかやらないことが多い。もう餓鬼じゃないからってだけじゃないと思う。
 ぼんやり空を見上げてみると、聞こえてくる。不思議なメロディー。安っぽくて、暖かい音色。
「なんかさ」
「なにー?」
「――なんでもない」
「なによー」
「へへ」
「……えへへ」

 この声が聞ければ、いいや、と思う。