『あなたの人生の物語』テット・チャン

 SFはさほど読まないのだけれども、わりと好きです。なんでかっつーとあるタイプのSFというのは、ある世界観を提示することによって、新しい世界を提示してくれるからです。――そう思わせてくれたのは『夢の樹がつげたなら』でしたが、久しぶりにそれと同じタイプのSFにめぐり合うことが出来ました。前掲書と比べると、エンターテイメント仕立ての部分をそぎ落として、より一層アイディアで見せていくような要素が強いんですが、またそのアイディアがとんでもないです。すげー。
 
 以下ネタばれ――というか、それを含んだ妄想。
 とりあえず、相当お勧めなので妄想好きは読むべし。










 

 つい30分前くらいに表題作『あなたの人生の物語』を読み終えたんですが、これがいまんとこ一番興味深かったです。(まだ『72文字』読んでないんです。これが)新しい言語の可能性を探るとともに、その言語体系を見につけた人間がどのようになるのかを考えたストーリー。
 ところで。内部的SFと外部的SFというような分類はどうでしょうか。
 適当に思いついた分類なのであんまり精密化とかはしてないんですが、説明します。
 外部的SFというのは、人間の外にあるものに新しいものを見つけるというものです。一番一般的なのは宇宙人との遭遇でしょうか。人類とはまったく異質なものと出会うことによって、新しい世界観を提示してみたりする。
 大して内面的SFというのは、人間の中に新しい可能性を見出すSFです。道具として、宇宙人が出てきたりしますが、その結果として、人間が日常では体験できないような何かを感じ取り、その感じ取ったものによる変化がテーマになります。たぶん、どっちかといえばニューウェーブがこの分類に入るような気がしますが、俺あんまり読んでないんで知らないです。
 この二つ、比べてみると後者のほうが難しいと思います。新しいものを提示するというアイディアレベルの難しさはどちらもかわらないのですが、それを人間に適用するという時点で、かなりの想像をめぐらせなくてはなりません。そしてその想像力にはリアリティの感覚が必要になります。そのリアリティというのは現実と乖離したものなので、人間観察による地のついた地力も必要です。*1
 この作品は、そのすべてをしっかり満たしています。とっぴなアイディア(『あなたの人生の物語』は特に凄い。)、それを支える文章力(とついでに言えば、構成の選択。『ゼロで割る』はそこが秀逸)、経験と観察によるリアリティ(『バビロンの塔』と『あなたの人生の物語』に特に感じる)。
 久しぶりに、手が止まらないような読書でした。満腹。


 満腹ついでに、妄想しました。
 『あなたの人生の物語』は良質の内部的SFで、それはもう一つの世界を提示してくれることで、必然的に「人間ってこーなのかもなぁ」というような妄想を膨らませてくれます。
 ここでの区分は『人間の言語/ヘプタポットの言語』でそこから発展して『逐次的認識様式/同時的認識様式』ということになるんですが、これは言い換えれば、認識事態が、その認識様式によって変わってくるということなわけです。こう書くと当たり前っぽいですが、英語の人が見ている世界と、日本語の人が見えている世界が違うっつーことですよね、これは。
 さらに言えば、それぞれの人間の日本語が違う*2――のだろうから、それぞれの人間の見えている世界というのはさらに違うわけです。
 ここから思いつくことは二つ。
 「私が死んだ後世界はどうなる?」という質問に対して、「そのあとも世界が続いていく」という一般回答以外に「世界は消えてなくなる」という回答があります。これは、「私」が死んだら世界は認識できなくなるので、なくなっちまうんだ、というような屁理屈みたいな正しい理屈みたいな話なんですが、この回答をある程度擁護するような考え方にも発展できる気がするんですよね。世界というのはそれ自体で存在しているわけではなく、認識している人間がいることによってある――ってのは不確定性理論だのポスト構造主義だか構造主義だか*3からの財産の一つですが、それに加えてその考え方を加えることによって「一人一人が違う世界を持っていて、その人が死ぬことはその世界が崩れてしまうことだ」という展開で、ある程度人間の尊厳とかを高める論理に向かわせられないでしょうか。
 まぁ、そこまでいかなくても、「こいつむかつくけど、こいつはこいつで俺と違う世界に生きてるんだろうなぁ」というのを腹の底から腑に落ちることが出来れば、今以上に不条理に対してやさしくなれないでしょうか。てか、俺はなれそうな気がする。もちろん、相手がどーするかの予想が立たなきゃ生きていけないんだから、それはある程度キープせんといけないし、それを裏切られればだるいんだけどさ。
 もう一つの展開というのは、もしも、私たちが見ている世界というのがそれほど言語に縛られたものであるというのならば、その言語をある程度コントロールすることによって、世界事態をある種変革することが出来ないだろうか、という流れです。この発想自体は実は結構前からぼんやりと思っていたもので、この日記にも難解か出てきたものであるような気がするんですが、これを読んでますますはっきりと思ってしまいました。*4よーするに、様々なものに対しての概念を自分の中で変更することによって、世界を今とは違った形で見られるのではないかとゆーことです。それは、本を読むことによってもそれはかなり起こるので、そういう風に意義付けを行って、積極的にそれを取り入れていける、ということでもあります。ってまぁ、今気がついたんですが。
 
 とりあえず、バージョン1.
 色々手を加えます。
 しかし、ぶっちゃけ、痛いよなぁ、これ……。むぅ。まぁ、俺の痛さの方向性がこっち側だからしゃーないんですけどねぇ。

*1:この分類を何で作ったのかっつーと、自分が内面的SFが好きだ! というのを力説したかったんですが、それにあたるような言葉を知らなかったんですよね。要するに、これが世界をコントロールすることの一種なのかもしれない。

*2:と勝手に思い込んでいるんですが、どっかに論証した本ないかなぁ。明らかに違うと思うんだけど。例えば、学者っていうのは日常から乖離したとkろでああいうことを考えているのだけれども、そのフィードバックが日常に帰ってきていて、だからこそ、様々な発見を普通に生きる中でしているし、普通の人と比べて大学の教授というのは変人ばかりに見えてしまうのではないだろうか、と思うのですが。もしかして、当たり前すぎるからみんな何も言わないだけなのだろうか。どっちなんだろう。

*3:不勉強なのでよーしりませんが、80年代辺りの学問の流れですよね? マックス・ヴェーバー以降の伝統の科学は問題意識の時点で科学者当人の個人性みたいなものが深く刻印されてしまうので完全な客観科学には至らないという考え……とい何かが混合したものだった記憶があるんですが、そっち側が思い出せないです。多分、そっちが構造主義だのなんかだったと思うんですけどねぇ。なんでしたっけ?

*4:実はこの発想を貰ったのは最近はめっきり離れが進んだ宮台真司の著書『終わりなき日常を生きろ!』からだったような気がします。確か、オウムのサリン事件と女子高生の援助交際を絡めて論じて、前者を少年漫画的世界観における「世紀末」、後者を少女漫画的世界観における「世紀末」の実現と論じて、後者のように「自己コントロール」を通して世界をコントロールする思想を「対外的に迷惑かけないので、社会的にもオッケーだし、何より変な反発にあわないからやりやすい」という方向で肯定した本――だったと思うんだけど違ったっけ?