日記かいてないねぇ。

 大体において、日記を書いていないときというのは忙しいときであり、日記を書いているときとゆーのは暇なときであるわけです。
 今の俺=二月のバイト地獄近くに忙しい。というわけで、中々駄目なわけです。二月のバイトでは15万ほど稼いだ様子です。結村さん、それで許してください(土下座

 つーか、日記二回書き足したらめちゃくちゃ長くなったよ。やれやれ。これでも、結村さんの半分くらいの気もするけど。

 ネタねぇ。
 うーん……。
 自動筆記モード。

 二歳上に見られてむっとした、とかって別にネタにもならんですよね、こっちだと。大学、あるいは高校・中学では二年違うと大違いで笑い話になるんですが。そう考えると中々面白い。単に、いる人間の年齢層の違いというのもあるんですが、もちろんそれだけの単純な話でもないわけでしょうね。年の経つごとの時間の流れの速さとか、あるいは年齢によって分けられたたちばの違いとか。
 まぁ、とりあえずむっとした、というだけの話。

 むー。
 あと、みっしーアンテナからかなり人が着てる様子ですね。中々面白い。なぜ、あそこのアンテナだけが定番しているのか、とか。まー、これは単純にほかにそういうのがないからってだけでしょうけど。

 ちなみに私生活のほうは完全にサークル一色です。涙が出来てそうなほど清い学生生活で、ぶっちゃけやってられません。やってられるか。ただ、それも自分の選んだ道といえば、道ですし、勉強になるといえば勉強になる。とりあえず、すべての物事には糞面倒な裏があるとか、100人が楽しく笑うためには、一人はまったく楽しくない仕事をしなきゃいけないとか。人付き合いというものが楽しいからやってられるよーなもんで、面倒なだけな仕事とゆーのはあるものです。
 あとあれ。先輩とかマジ面倒だからなりたくない。
 基本的にネタとか振りたくないんですよね。だるいから。破壊的に面白いネタが振れるわけでもないし。でも、それはそれで勉強、なんだろーなぁ。楽しくなってくるかもしれないし。
 世の中だらだら進むんでしょう。だらだらしろ。逃げろ。逃げろ。

 色々なことを考えるけれども、考えた瞬間に忘れていくんですよね。
 逃げろ逃げろ、で有名だった浅田彰となんかを絡めた話を思いついて、おーとか思ってたんですが、どこかに飛んでいってしまったし、携帯で打って知り合いに無駄に送りつけた小説の展開も一番の肝の部分以外はもうすっかりと忘れてしまったし。
 忘れてしまった思い出はどこに消えてしまうのだろうか、というのはkanonでは、わりと取り扱われるテーマであるような気がします。どこかに向かってたなびいていくのかもしれません。それは風に乗って、めぐりめぐって、最後には自分のいたところにたどり着くのかもしれません。あるいはどこにもたどり着かないでその場にとどまり続けるのかもしれません。前者がKANONで、後者が空の境界、とか言ってみるテスト。
 解釈の方向性によって、その世界観が決まるんでしょうけど、それって要するに作者の人格によって世界観が決まるってことですよね。その人の選びやすい解釈の方向性っていうのは、それまでの経験やそのときの考え方とかで決まるわけでしょーし、それって一般的に言う人格でしょうから。
 ――当たり前といえば、当たり前の言葉を言語化するのが自分が文章を書いている意味なんでしょう。その当たり前の言葉たちがどっちの方向を向いているかで自分の形をだんだん明らかにすることが出来る。出来なくても、それほど害があるとは限らない。
 こういった風な文章のつなげ方がそもそも形の一つですしね。
 メタだなぁ。相変わらず。

 ミスチルの『シフクノオト』ゲトーしました。とりあえずゆっくり聞いていきます。ジャズトロニカのほらいずんもげとーしました。レンタルだけど。あとはサニーデイズサービスの人の『瞬間と永遠』となんか適当にUAとか入ってるのを一枚。ついでにジャズベースの教則ビデオをレンタル。ビデオはかなーり面白いです。グッドジョブ。アンド、ブルース。

 飲酒日記終了。
 いえい。

 再開。

 自分の苦手なことは何も考えていないように装うことであるような気がする。でもそれって問題としては「考えていることをすぐにいう男って格好悪いわよね」(@なんだっけ?)と同じように駄目だよなぁ、と思う。
 心を開くのが面倒なときもあるし、開かないのが面倒なときもある。人格が一定に見えるように保つのは中々面倒くさい。――どーなんだろうねぇ。どういう風に自分が見えているのか?というのはいつも気になるけれども、もちろん、そんなことはわからない。

 今日なんとなく愛しくも哀しき『自殺日和』時代を考えていた。あのころ出した結局死ぬことは何だろうと考えて考えて、結局わからなくて、結論として、わかんない、ということになった気がする。
 なんでこんなことを思ったかといえば、昨日ジャズ研の飲み会行って「ジャズが何か、って質問には答えられないんだ。なんでもそうだ。何が何かっつーのには人間は答えられないようになっているんだよ。それが人間の理性の限界」*1という言葉を聞いてしまったからだと思う。
 関係としては同じ。――じゃないけどね。
 あるシステムの内部にいる人間は、そのシステムの外側から規定されるものには答えられない。人間は死んだあとの人を見たことはないし、そういう状態になることもない。だから公人として死ぬというのがどういうことなのか、というようなことはわかるだろうし、死んだらまわりがどうなるのか、とか体がどうなるのか、というようなことはわかる。けれどもアイデンティティーの大部分がある(大体の人は)部分である意識がどこにいってしまうのかはわからない。わからないから怖いというよりも、わかるから怖いといえるのかもしれない。いえないか。どうだろうね。
 恐怖というものは、そういうのとはまったく関係のない次元で生まれて、消えていくものかもしれない。理論はすべて見当違いの切り口をしているのかもしれない。でも考えずにはいられない人もいる。そういう人は無駄と知りながらもやってしまう。気取って言えば――すべてのほかの物事と同じように、ってね。
 気取ってるかなぁ……。そういう物事も実はよーわからないけれども。常識がないということなんでしょうね。

 昨日の行きの電車の中かなんかでずっと考えていた小説なんだけれども、なんか書きそうにない。
 書きたい理由は、鬼畜調教ゲームとゆーのはあんなに深いテーマがかけそうな題材なのに、何であんなに薄いのばっかりなんだ! ということに尽きる気がする。そりゃ、安易にエロを書くために便利ではある。でも、そういうのを装ってものすごく深いテーマを書くことも、同時に出来そうな気がする。
 例えば、普通の調教ゲームのストーリーでよくあるおんにゃのこがつかまって調教され続けているうちにエロがなくては駄目になる。そして、はじめはいやいやだったのに最後は自分から「精液ぃ!」とか叫ぶよーになるとかそういう話。ありがちですね。
 でも、それをもしも、おんにゃのこの側から、緻密に描いたら、どうだろう。すげーおもしろいと思う。特に優等生とかを調教しちゃっている奴ならば、大体そういう連中なんて基本的に体よりも先に頭が先行していて頭でっかちだと思う。そういう連中で特に頑固な奴がそういう状況に追い詰められたとしたら、そこで起こるのは「自分」というものをどちらにおくか、おけるか、とかそういう話であると思う。言い換えれば、それまでの自分ともう一つの自分の間でどういう風にバランスを取るか、という話だ。
 人間が変化するというのがどういうことなのか、っつーのを考える上でこれほど極端で短期間でしかも劇的な例というのもあまりないような気がする。
 ――でも、「死にたい! 殺して!」とか叫ぶようなのはなんとなく勘弁なのです。気が弱いんです。達磨とかやめてください。グロいです。
 あとはあれか。ご主人様ーとか言わせたがる心情って、征服欲もあるだろうけれども、それと同じぐらいだれかを自分に中毒させてみたいというような欲望がある気がする。人間、基本的に自分だけ見てくれる奴なんて存在しないわけだし、そういうのが存在したら、どーゆーふうに変わってしまうのか、っていうとわりと、面白い気がする。「ご主人様ー」とか呼ばれだして「これは愛なのだろうか」と悩みだすのもその二つがある側面においてよく似ているからじゃないだろうか。もちろん、その二つは違うだろう。愛なんてさっぱりわからないし、関係において規定されるものだし、規定したって逃げていくもんだとは思うけれども。
 そこで生まれる関係って、どんなものなんだろうか。もちろん、対等ではない。でも、もしも、「ご主人様」のほうが「奴隷」に執着してしまったら、そして「奴隷」がそのことを知ったならば。そうしたならば、いびつながらも力関係を対等に戻す鍵は「奴隷」の手に戻ってくるわけで。
 そして、調教なんてしてしまう心のゆがんだ奴――設定はどうにしても、そんなやつゆがんでるだろう。もしかしたら、ビジネスマンかもしれないけど、そういうのは話になんないからな――はそのことでどうなるのか。その際には心理的にどんな葛藤があるのか。あるいは、ないのか。おもろー。
 あ、おまけ。
 マリ見てで一番興味があるのは聖がリリアン大学に入った後の話なんだけれども、実は次に興味があるのが祐巳と祥子のコンビだったりする。あの二人は、なんていうか、面白い。二人とも姉妹という関係にいまいち自信を持ちきれていない辺りが面白い。でも、実は純粋に姉妹なのはその二人だけである気がする。例えば、聖と志摩子とか、由乃と令とかは姉妹以外の部分で強く結ばれている。聖と志摩子は精神的な双子である部分で、そして由乃と令は姉妹以前の関係として。だからこそ、本編でも祐巳と祥子の姉妹関係というのはよくクローズアップされるし、面白い。
 でも、もちろん、どういうのが正解かという答えはない。当たり前だろう。元々人間が二人いて、それが関係があるというだけなんだからどういう風に付き合わなきゃいけないなんてものにはならない。
 ただし、正解はなくても、イメージはある。恋人なら一緒にデート行って手ぇつないでキスして胸触ってモノ入れて結婚して別れるって喧嘩してクリスマスに椅子を買って帰って、となんとなくイメージはある。でも、姉妹に対するイメージには実はそれが希薄である。もちろんあるんだけれども、大体において祐巳の持つ姉妹のイメージっていうのは少女漫画的なものであり、現実味が激しく薄い。言い換えれば、現実に不時着するのが難しいから、いろんなところで夢に敗れまくる可能性がある。そして、祥子と祐巳は姉妹という以外に関係をもつことはない。ついでに、祥子と祐巳は友達になることもできない。
 思えば、パラソルとレイニーブルーはそこが甘かったような気がする。あの二人が別れたとすれば、そこをもっとクローズアップするべきではなかったのだろーか。でもそれは、本編の作業ではなくて、二次創作の作業なのかもしれない。
 ――そういうSSないもんかねぇ。俺は正直そんな面倒なものを欠くだけの気力もないし、根性もないし、もっと言えば、優先順位的にそんなもの書く気もない。ベースとかギターとかやりたいのー。勉強もしないといけないのー。バイトもー。サークルもかっ。うわー。的な。
 一番初めのが原因とも言えるけどな。

 再び、自動筆記終わり。


 また再開。
 適当なペースで書き続けるをれ。
 ガングレ、面白そうですね。すげーみたくなってきた。
 にけたんがだだはまりっつーのは知っていたんですが、風見さんもはまっていたらしいことを知って、そーかー、凄いのかーとかぼんやり思ってます。TSUTAYAに入ったらかりてくっかー。いつになるかわからん上にはいらない可能性もかなーりあるが。それも残念だが。

 終わり。

*1:ちなみにこの後、「だから俺ゃ、自分のやりたい音楽をやってるだけなんだよ」と続く。格好いい。哲学が日常の思考にまで染み付いているのが素敵。