本を読んで何かが変わるとしたら

 それはどんなもんなんだろうな、と考えてみたりするわけです。わりと自己形成は本によっていると思う人間ですが、それは本の内容によるものなのか、と言われるとそれもまた違う気がする。確かにそれなりにいろいろなジャンルをミーハーに読んできたわけですが、それによって自分が形作られた部分よりも、どちらかといえば本を読むという行動それ自体によって作られた自分自身の方が大きいと思うわけです。
 浅羽道明の『教養論ノート』あたりに詳述されていますけど、本なんっつーのは所詮現実逃避の要素が強いわけです。現実のミニチュアではあるかもしれないけれども、そこから何かを学ぶというよりは、一時的にその世界に逃げ込んでそこで安全で言い返される危険もほとんどない(たまにある)ところで自分の意見を言うなり、観客としてそれをゆったり眺めたりするだけなわけで。まぁ、それなりに感受性というかパターン的な萌えの幅は広がると思いますが、それによって、さほど何かが身につくとも思えない。だって、読んだ本の内容をしっかり覚えてますか? 良かったシーンを一行一行言える?
 それと比べて、本を読むという行動それ自体によって、ある程度現実の生活でのその人のポジションが決まってくるっつー現象はそれなりにあると思います。もちろん本を読む人すべてが比較的ヲタッキーになったり、マイナーなポジションだったりするとは限りませんが、その人が所属する文化と所属するコミニティーはそれなりに近くなるでしょう。Bボーイはヒップホップを聞くし、ヲタはアニメを見るのは常識なのです。*1そういった生きてる場所みたいなのは個人に大きく影響します。「人間には確固とした個性が存在する」派ではなく、「どっちかっつーと周りの影響が大きい」派ですので特にそう思います。ここら辺は経験則ですが。
 そんなわけで、ぼんやりと本を読むことそれ自体よりも、本を読むという行動によって位置づけられることのほうが、本人に影響を与える度合いが強いと思うわけです。
 ――んでまぁ、一応これが前提として、そこから本によって何かが変わるとしたら、どんなことがありえるのか、っつーのをまた今度。


 しかしまぁ、こういう文章を書こうとすることや、こういう文章の論法や前提を本から影響されていることを考えると、対人関係において影響が無いというべきかもしれない。
 まぁ、それはかなりの割合を占めることだけれども。

 (2/5追加)
 もうちょっと考えたら、もっとシンプルに「可能性すべてが手に入るわけじゃない」とか「頭で考えているほどには物事うまくいかないし、大体それほど立派じゃない」ってことでした。なんだよ。

*1:そこらへんは可逆的っつーか、もともとそういうポジションにいた人が本を読むのか、あるいは本を読むからそういうポジションに行くのかはお互いに影響しあっている気はしますが