嘘吐き

 自我というものは、他人が自分を見ているように自分を捉えられたときに生まれる、という考えかたがある。鏡像自我って奴。つまり「他人→自分」のように「自分→自分」でさされたのが自分っつーわけか。
 そう言う捉えかたをしているからこそ、自分に対する認識がすぐに変わっちゃったりするのかもしれない。他の人がうだうだ言ったりする――つまり「他人→自分」――も自己認識と同じ構造にあるのだとすれば、それに影響されてしまうのもむべなるかな。大体、じぶんにそれほど自信を持っていて、「俺はこういう人間だ!」と語れるような奴は少ないだろう。だからこそ、心理テストだの動物占いだのが流行る訳で。心理学もそういうふうにとらえるらしい、って前授業でやったなぁ。
 ならば、自分とはなんだろう、とか言い出しても良いんだけど、それはさておくとして。
 そういう風に自分を捉えているならば、嘘吐きは自分をどう思うのだろう? 外面的に自分を捉えていれば、それは嘘ばかりついているわけで、それを頼りに自己像を形成していけば、一貫しない自我しか生まれない。それに一定の意味付けを与えられれば、それでいい。そうやって自己のイメージがフィードバックしていって、新しい自己観・世界観が生まれるんだろう*1。けれども、その一定の意味付けも与えられない真性の嘘吐きは?
 そこには、何も与えられない気がする。
 佐祐理SSの肝の一つはココだと思う。
 解決法はとりあえず二つ。すべて嘘あるいは本当だとするか、或いは他の基準を貰ってそれに縋るか。今回のこんぺになぞらえて言えば、前者が『さよならの嘘』で後者が『幸せの玩具』が当てはまる気がする。

 ――うーん、浅すぎるなぁ……。
 とりあえず第一段階ってことで許してください。

*1:たぶん、ブリッコと呼ばれる人の内面は、それがおきているのだろうと個人的には思っている。論理的矛盾が生まれる気がするから、それをどう処理をつけているのかが一番気になるが。すべて引き受けているとも思えないし