ミスチル論風フィクション 〜Time goes by〜


 ミスチルというバンドを、ひいては桜井氏という作詞家を、自分はあまり評価していないと思うときがある。そして、自分の好きなほかのアーティストと比べてみて、肯く。
 性と生、そしてそれに対する存在である死を絡めながら独自の世界観を紡ぐThe yellow monkeyの吉井氏。
 自分の弱さを全て認めて、そこから一歩でも踏み出そうとあがく姿を、隠すことなく不器用に歌い上げるBUMP OF CHIKENの藤原氏
 他者の理解を阻むような歌詞センスと、「不良少年=純粋さ」ゆえの孤独を描くblankey jet city の浅井氏。
 その三者と比べてみた時に、桜井という作曲家は独自性という点で一歩譲らざるを得ない。彼には、上の三者のどの要素もある程度はもっているけれども、どれかを完全に伸ばしきってはいないように感じられるのだ。その分歌詞はストレートでキャッチーでポップなものとなっている。つまり、売れるための要素を多分に含んでいる。しかし、そのわかりやすさの代償として、奥深さを欠いているように感じるときがある。
 例えば、『終りなき旅』には『ロストマン』に見られるような、過去の絶対的な喪失感、それから生まれる未来への不信がないのではないか。未来は、「間違った旅路のはてに再会を祈りながら」というように、最後には祈ることしかできないものだという域まで達していないのではないか、そんな風に思う。
 ――いや、この表現は正確さを欠く。ミスチルは奥深さがたりないと思っていた。それはもう過去の話だ。

 それが変り始めたのはいつからだろう。恐らく『蘇生』を聞いた時点で変化を感じて、『It`s wonderful world』を聞いた時点でそれを確信し、『any』の発表と共にミスチルの一時代が終わったことを知ったのだと思う。
 ミスチルは昔は文字通り『children』だった。『イノセント・ワールド』を聞くと、そのことが実感できる。そこには確かに挫折はあるかもしれないけれども、それを素直に受け取り、そこから素直に立ち直ろうとする姿が見られる。そこにいるのは、まさしく無垢な世界にまどろむ少年だ。
 けれども、時は流れる。桜井氏はだんだん低迷の中に迷い込んでいく。死を歌った『花』、明日への希望を否定した『Tommorrow never knows』――有名なそれらの曲は、最後に希望があるとしても、それは迷いの果てに一瞬だけ掴んだ幻覚に過ぎない。蜃気楼のような希望は、手にした瞬間にはもう無くなっている。この頃のミスチルはそれを必死に歌っていた、歌おうとしていた。そんな風に感じられる。
 それでも、時は流れた。一時期の休業を経て、離婚を経て、掴んだ希望が幻であったことも『NOT FOUND』で全て認め、そして、いつかそれが幻であっても肯定することを知るようになる。「真実からは嘘を/嘘からは真実を/夢中で探してきたけど」・「「愛してる」と君が言う/口先だけだとしても/たまらなく嬉しくなるから/それもまた僕にとって真実」。共に『Any』からの歌詞の引用だ。次のシングル『HERO』では、英雄になれない自分を認め、ただ一人を救えるだけでいい、と歌う。少年であることを無邪気に受け入れていたミスターチルドレンも、やがては大人になった、そういうことなのだろう。

 ミスチルの真価は、一つ一つの歌にあるのではないのだと思う。
 2桁に及ぶアルバム、10年以上の年月の中で、桜井という人間がどんな風に成長したたのか。いわばミスチルのアルバムはその成長日記のようなものなのではないだろうか。


 『It`s wonderful world』を聞いていて、そんな風に思いました。
 『ファスナー』は名曲です。本当に。

 てか、フィクションだから、これ。
 曲の解釈間違ってるのあるし。『終わりなき旅』大好きだし、このころのミスチルがガキだとは思わないし。
 ただ、年代で追うことに意味がある珍しいバンドだとは素で思う。