究極的には。――究極的には?

 竹さんに貰ったTHE BULE HERBとか聞いてみたりしてます。かなり好きではありますが、これを素直に好きといってしまうのは若者の最終地点である大学生としては恥だし、そういうことを除いても素直に好きとはいえない点が多く、なんだか複雑な気持ちになってしまいました。
 とりあえず、音楽的には落第点を上げるのも嫌になるくらいラップじゃないと思いますが。ライムスターのリズム感覚でも見習え。――ともまた、素直にいえないんですが。大体お前らラップやる気ないだろ、と言いたい。そして、それが問題じゃないのがまた問題と言うか。
 よーするに、究極的に何をやりたいのか、と言う話だと思うのです。何が目的で、何が手段なのか。今やっている行為は目的なのか、過程なのか。それが目的であってはいけない、過程であってはいけないという判断は大体において無意味です。
 例えば、床屋の旦那になりたいという夢と、総理大臣になりたいという夢を比べたときに誰が片方を笑う権利を持っていると言うのでしょうか? ねぇ。それは、元々どちらもくだらない夢だったんだよ、きっと。ただTVで見てちょっと格好よかったり、たまたま道ですれちがったら胸がときめいてしまったり、そういうものなんだ。それを胸の中で暖めて、大切に育てて、形を変えながらも持ち続けたものなんだ。それをどうして君が笑えるの?*1
 笑う権利を持てるのは、その夢をかなえるための行動があまりに筋違いであるものだけだと思います。例えば、誰かを思うように動かしたいと思ったときに、どっかの会長になった。でもその会長はお飾りだった、と言う場合は笑えます。こっけいです。愚かです。個人的にはちょっと悲しいですけど、それは馬鹿げていると思います。
 本当にやりたいことのためならば、人の視線、過去の伝統と思い込み、そんなものは無視するのも方法の一つです。もちろん、そのメリット・デメリットを考えて。*2
 BLUE HERBは完全に通常のラップをすることによって得られるようなメリットを捨てて、ひたすら己の世界を作り出します。呟くような、呪うような、内面独白。ぜんぜんグルーブしてない。弾むものなんて一つもない。でも、それはそれなりに心を打ちます。
 内容もまた、特殊です。自分の知る限りラッパーは孤立を己の凄さにつなげ、リスナーを引っ張ろうとします。けれども、彼(ら、じゃないよなぁ)はそのリスナーのほとんどを捨てようとしているように感じます。1000人に1人ほどの本当に理解してくれる人を、そしてその曲を作る過程で得られる喜びや彼の言葉を借りれば真理を捉えようともがいています。おそらく、想像できないような苦しみの末に曲を作っているんでしょう。
 でも、その行動は、あまりに「子供向け」です。周り見ないで済むのは、10代までです。自己中は迷惑で、駄目です。ただ、その意見も「俺から見れば」という括弧をつけなくてはいけないものではあるのでしょう。彼らからすると。そういう世間の目があっても、それでも成し遂げたいものがある。そういうことなんでしょうきっと。
 そのためになされた様々な努力とかを考えると、なんだかすげえなぁ、と思うのは、素直な本音です。唯一素直な。


 「路上」の歌詞と雰囲気は好きです。これも素直だな。 

*1:ちょっと違う言い方をすれば、誰も外部に立つことはできないと言う表現もありだと思います。人生の一地点における最終目標というのは、あきらかに通常の常識からは一歩外れたところにあるものです。100年後は非常識が常識で、常識が鬼畜の行為と化しているかもしれません

*2:個人的に大言壮語型ラップに素直に衝撃を受けないのはこのあたりが分離しているせいかと予想してます。だって、やつら自分が凄いというトークを売り出し文句程度にしかつかってねーじゃん。もっと凄いことしろよ