携帯雑考

 携帯のメール画面で打っていたという時点でなんか不思議な感じだが。
 へきろーさんとこのゲストブックでちょこちょこ書いてたのをいい機会にちょっと考えてみようと思ったので整理
 ・声と文字の違い
 →情報量の違い:時間当たりに伝えられる情報量は声のほうが多い。メールは打ちにくい。
 →表現法の違い:携帯で女の子はなんであんなに顔文字を使うんでしょうね?

 ・リアルタイムか否か
 →時間の拘束(?):へきろーさんにだめだしされた。ここはわりと文化*1の違いを感じるけれども
 →伝わるのは確実か否か?:リアルタイムなら確認しながらできるけど、メールだと無理。

 +考える際には層状の構造を考えたほうがいいかと思う。まず、一番下にあるメール/電話の機能はどんなものなのか。そして、その上にどんな文化が構成されているのか。
 もちろん、メール/電話で文化は異なっている。そして、それを作り上げているものの大きな要因のひとつには電話とメールのそれぞれの特徴があるはず。
 たとえば、写メールが現れてから、写メールを送りあうというやり取りが生まれて、表現力が下がった。いずれ写メール専門の幽霊が出るのかもしれない*2

 へきろーさんに対するレスの転載。

 >たかが電話? されど電話?
 コレは完全に定義の問題が初めにあって、俺が言う文化は世界全体を覆うものではないでく、わりと狭いものです。ある教室の特徴であっても、俺は文化と呼びます。
 ただまぁ、ここを乗り越えて出てくる次の問題が割と大きくて、じゃあその「電話は重要なんだろうか?」と思う文化がどのくらいの普遍性があるかどうか、という話です。
 ここらへんは、まさしくリサーチしてみなくてはわからない問題だと思います。今度携帯でメールまわしまくって聞いてみようかな……。
 どーなんでしょうね。もしかしたら、ないのかもしれない。携帯ができて、固定電話は「親が出るのがうざい」ものであるとして使う人が減ったという話はわりと聞きますが、携帯の電話事態は微妙ですよね。

 >メールの拘束時間
 「メールは拘束時間はない」は嘘だ、と一刀両断されてますが、確かにそのとおりですね。考えてみりゃ、電車の中くらいは拘束することは簡単です。
 ただまぁ、すぐに切ることも割りと簡単なメディアではあります。だけど考えてみりゃ、電話だってそのとおりですね。とすれば、メールのほうが拘束時間が少ないというのは確かに嘘である気がします。でも、その代わりのなんかがある気がする。
 ――なんだろ?

 ここら辺も、メールの使い方という話が出てくる気がします。たとえば、俺なんかは来るメールをかなり無視する相手は無視します。某NETの知り合いが送ってくるメールの7割くらいは黙殺してます。内容が本当に適当だから、なんですがw でもまぁ、それでも相手は送ってくるし、時々返すとすごい勢いで会話が始まります。そういう使い方だと拘束されるかどうかをお互いが選べているような気がします。
 ――ただ、におわすニュアンスという話も確かにあるから、これは一部の話題ということになってしまうんですが。重要な話題では断ることはできない。

 次の話題を先取りしてしまうと、言い訳が簡単であるのと同時に、そこから始まる会話(メールの)を断るのも簡単なよーな気がします。
 これは感じ方のレベルをちょっと超えている気がします。メールで電話していいかをたずねてから、電話をかけるというのはありえますが、逆はありませんからね。

 ――うーん。ここはまだ雑考ですね。
 なんか論理展開が間違っている。ねじれてる。とりあえず保存がてらうpしておきますが。2・3・4・5でそれぞれ話題を変えてるんですが、個人的にはつながっていると思っていて、どーつながっているのかうまく説明できない。ここはとめておこう。

 

*1:社会学の用語の使い方だとこれは結構細かいところにも使えるみたいです。無意識的にそっちを使っていた風味。ごめんなさい。  3/1 さらに追加。どうやら、この文化という言葉の使い方は違うみたいです。もっと普遍的な意味のやつだけらしい。ただまぁ、細かく分かれた一部の人たちの習慣という意味で使いたかったことには違いありません。勘違いさせてしまった人にはごめんなさい

*2:浅羽道明『天使の王国』参照。要約すれば、表現をさぼって、写真を唯一の外部の視点として使うことによりアイデンティティを生んでいたのではないか。そして、それが暗室で処理される恐怖から、写真に写る幽霊が生まれたのではないか、という話。この説明、わかりにくー