『蹴りたい背中』綿矢りさ

 はにゃーんさんあたりが「誰も読んだって話聞かないねぇ」とかそんなことを書いていて、「んだなぁ」とか思っていたので読んできました。立ち読み。座って読めるリブロ万歳。
 総合的に言えば「才能はあるんだろうけど、これで芥川賞はねぇ」、って感じ。あるいは「最年少の芥川賞ならこんなもんか」かな。

 まぁ、うまいですね。おこがましくも同年代としてみてみたら、文章はかなり変拍子ですけど結構面白い表現が多いし、女性らしい細やかさといやらしさの同居する文章で男にゃ無理だよなぁ、と思わせるものがあります。プール前の着替えの比喩とか、男にとしては「そんなもんかぁ」とか思いながらもなんとなく感覚がわかって、おおやるな、と思いました。
 もしもNETとかをふらふらしていて、オリジナル小説、とかであったらかなりの掘り出し物だと思うでしょう。ついでに、その小説をあるだけ保存するでしょう。いつ閉鎖するかわからないような文章だから。
 というわけで、1時間だか。40分だか退屈はしませんでした。

 ところで話は変わるんですが。
 昔俺が『はやく昔になればいい』を書いて、沙柳さんという方に感想をねだって、ありがたくも頂いたですが、そのとき「まだ残酷さが足りないね」と言われて、深くうなずいたことがあります。
 一人称を得意とするような人には多いと思うのですが、主人公の思考と自分自身の思考がわりと重なってしまうせいで、完全に主人公という「キャラクター」に対して残酷にあたれない。どこまで引き落とすことができずに、同情を交えて状況を設定してしまうし、落ちでもそこまで落とすことができない。
 それと比べて、たとえば今テレビでやっている『白い巨塔』とか、落ちはアレだし、展開でもエグいことをやってくれています。ああいうことが出来る古き良き純文学みたいなのはいいなぁ、と思います。本当の意味での救いには本当の意味で貶めることが必要でしょうし、世界観を提示する上で一人のキャラクターから離れた描写みたいなのは必要です。
 複数の人物がそれぞれの世界観、人格、行動を交錯させて、それによって何かを描く骨太な作品。『蹴りたい背中』はその手の作品ではありません。残念ながら。それどころか、主人公のハツとにな川という男の子に対するところに焦点を絞っていきます。もちょっと細かく書けば、まわりの人間を描き、にな川を描き、それに対する主人公の反応を書く、という描き方ですね。
 これだと、さっき書いたような欠点がもろに出てしまう気がします。主人公に対して残酷になれないせいで、どこかピリっとしないし、等身大以上のサイズのものは見えてこないし、救いもない。
 もしも、この主人公ハツや、その親友の絹枝、そしてにな川、ついでにクラブの顧問やその先輩あたりのキャラを平等に描いて、その人物たちの交錯をしっかりと、書ききれていたらなぁ、と思います。それなら、芥川賞にふさわしいような作品になったでしょう。
 そういう意味で、まぁ、18だか19だか、だよなぁ、という。もちっと上に行ったのが見たい。10年後にこの人が残っていて、それがかけていたなら感動しますが、そんなことはないんだろうなぁ。それにそのころ俺はもうこういうのに一切共感できない年代になっているんだろうし。とほほ。

 おまけ。
 まーでも、この作品そこそこ売れる可能性はあるでしょうね、と思います。言い換えれば「芥川賞をとった作品だ。ちっと読んでみようか」と読んだ人は、だいたい、それなりに満足できるような気がするということです。
 たとえば、「芥川賞史上最年少! 同年代くらいだなぁ」っていう本なんかを今時読んでしまうような子はまぁちっとは周りからの断絶を感じているでしょうから「ああわかるわかる」と主人公に感情移入して、途中に出てくる表現などから感銘を受けたりして、読み終えることが出来るでしょう。
 んで、逆に高年齢の方とかになるとまったく異質な世界で「最近の若いもんはわかんねーなぁ。」かあるいは「今も昔もかわらんものはあるんだなぁ」だか知りませんが、そんな感想を抱けるのではないでしょうか。
 綿矢りさ萌え画像とか見てる人は、まぁ、もちっと萌えられるかもしれんな。クラスの恥のほうで一人座ってる女の子とか萌えだろう、あんたら。
 普通に本に読みなれた人でもまぁ、それなりに楽しめるレベルには仕上がっていると思うので、その点もオーケー。


 ま、それなりにいいんじゃないですか? くらいのスタンスです。結局は。
 でも、もうちょっとごんぶとに行ってほしかった。ホントは。それがかけていれば、たぶんもっと飽き飽きしながら生きている人に救いが見えたような気がする。こんだけリアリティを持って、「若いもん」をかけるんだからさ、そんくらいやってみてくれよ。3年がかりくらいでやりゃ、出来そうだし。