「そこにあなたはいるのね!」「いるけど、いるだけじゃ駄目だろ?」

 ところで。
 コミニュケーションの限界を、横に確かに誰かが存在している、その温かみみたいなので、解消するやり口ってどーなんだろうか。ある意味、『流れ星ビバップ』もその系列だし、『マルドゥック・スクランブル』もそうだった。*1
 ほかにもその手の問題定義&解決法で構成されている物語はたくさんある。小説もそうだし、映画もそうだし、音楽の歌詞とかでもそう。現代的といえばそうなのかもしれないけれども、なんかねぇ、とか思ってしまう。
 横に確かに誰かが存在している、と思える瞬間があったとしても、それだけではコミニュケーションの限界みたいなものを乗り越えることはできないわけで。たとえば、ヤっちゃって、「ああ、つながれた」とか思ったとしても、次の日からはまた「コイツ何考えてるんだーっ」というような疑惑は消えないわけで。たぶん、その上に何か付け加えられる何かがなくてはならないんじゃないのか、と思う。でなきゃ、その問題をホントに乗り越えたとは言えないんじゃないかって。
 現実的に言葉とかがうまく通じたなーとか思っても裏切られる危険性は常にあるわけです。*2そこを超えて、誰かとうまく通じているというのは、難しい。アイデンティティーだの自己証明だのをそこらへんにかけてしまう展開で、「そこにあなたはいるから」で落とされるとおもわずガックリきてしまう。(その場では感動しますが、後で考えて)
 どこかに明らかに目新しい解決法はないものか。*3

*1:ただ、『マルドゥック・スクランブル』は表面上そこに仮託しているように見せて、肝は違うところにあったんじゃないか、というような気もする。二読する気がないから精密化する気はしないけど

*2:宮台的にいえば『吉幾三問題』。東裕紀的に言えば『郵便的』問題らしいけれども、東氏の方は読んでないから知らないです。

*3:神話的アプローチというのは見たことあります。誤解じゃなければ。